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東京・南青山の中心部。斜めに切り取られた一面のガラス窓から午後の陽が差し込み、冷たい大理石の床に白い光を散らしていた。日本の上位0.1%に属するVVIPだけに門戸を開く、最高級ウェディングプロデュース会社『ルミエール』。
その代表、一ノ瀬紗月(いちのせ さつき)は、書類をめくる手を止めず、落ち着いた明瞭な声で指示を出した。
「グランドボールルームのメイン装花は、オランダの花市場から直輸入した白いアジサイとスズランにすべて差し替えて。バージンロードの壇はあと3センチ高く。ピンスポットの照度は10%落として、シルクのベールの輪郭がいちばん美しく見えるように」
「はい、社長。ただいまフローリストの統括チームと舞台演出チームに伝えました」
制作統括を務める宮瀬真帆(みやせ まほ)は頭を下げ、素早くタブレットを操作した。紗月のまなざしは鋭い。わずかなずれも、妥協も許さなかった。
5年前、離婚届と捏造された証拠を突きつけられ、わずかな慰謝料すら受け取れずに追い出された。あの頃の面影は、今の彼女にはどこにもない。
幼い子をひとりで抱え、異国で身を削るように働いて築き上げたルミエール。今や政財界の大物たちが何か月も前から予約を競う、他に並ぶもののないブランドとなっていた。
そのとき、宮瀬室長が少し緊張した様子で、決裁書類のファイルを紗月のデスクにそっと置いた。
「社長、先ほど桐生グループの秘書室から、直通回線で至急のご依頼が入りました。今年の下半期、財界最大規模となる非公開の政略結婚式です」
――桐生グループ。
その名が執務室の静けさを破った瞬間、書類の端に触れていた細長い指が、かすかにこわばった。けれど表情は、深い湖の水面のように静かなままだった。
「新郎側のご依頼主は?」
「桐生グループの桐生蓮司会長ご本人です。お相手は藤堂グループの一人娘、藤堂怜奈取締役。ご予算は実質的に上限なしで、全権を委ねるとのことです」
桐生蓮司(きりゅう れんじ)。
5年前、一族の安泰とグループの経営権を守るために、母親がでっち上げた慰謝料の契約書と合成写真を口実に、自分を冷酷に切り捨てた男。
広尾の路地に、けたたましい警察のサイレンと、救急車の赤い光が走った。蓮司を追って急行した桐生秘書室の警護チームと警察が、宗一郎に雇われた男たちを、その場で取り押さえた。だが、その騒ぎは何ひとつ、紗月の目には入らなかった。地面に倒れ、血を流す蓮司を抱きかかえ、全身を震わせて泣いていた。真っ白だったシャツは、すでに暗い赤に染まり、脈も呼吸も、今にも途切れそうに弱かった。「蓮司……! お願い、目を開けて! 蓮司!」氷のようだった声が、抑えようもなく崩れ、悲鳴となった。薄れていく意識の中でも、蓮司は血のついた指を震わせ、紗月の涙を拭おうとした。「紗月……泣くな……湊は……湊は、けがしてないか……?」息も絶えそうな痛みの中で、ただ、彼女と子供の無事だけを尋ねる声。自らの命で罪を償おうとする、その痛ましい愛に、紗月の胸が引き裂かれた。「話さないで! お願い、しっかりして! お願い……!」救急隊が担架を持って駆け寄り、蓮司を乗せた。紗月は湊を強く抱き、救急車に同乗した。車内で、心電図モニターが鋭い警告音を鳴らした。心停止の危険が迫っていた。聖凛大学病院、救命救急センター。外傷蘇生室へ運ばれた蓮司の周囲で、救急医と脳神経外科の医療チームが、慌ただしく動いていた。「頭蓋骨骨折と脳出血、大量出血による循環血液量減少性ショックです! 緊急開頭術の準備と、血液の確保を!」担当医はカルテを確かめ、紗月に現在の状態を説明した。「緊急手術は、ご家族の同意を待たず、すぐに行います。血液型がO型のRhD陰性なので、血液センターと近隣の病院に支援を要請しています。手術中、大量の輸血が必要になる可能性もあります」その瞬間、紗月は数日前に見せられたDNA鑑定結果を思い出した。湊の新生児健康記録にも、同じ血液型が記されていた。血液型だけで親子を証明できるわけではない。それでも、紙の上の数字としてしか見ていなかったつながりが、血を失い横たわる蓮司を前に、残酷なほど生々しく迫ってきた。医事担当者に蓮司の個人情報と緊急連絡先を伝え、紗月は冷たい廊下の椅子に崩れ落ちて泣いた。手術室の扉が閉じ、「手術中」の赤い表示灯がついた。血に濡れたシャツの切れ端を胸に抱き、紗月は止めどなく涙を流した。遅れて病院に着いた悠真が、震える肩をそっと抱き、低く囁いた。「紗月……桐生蓮司は今
桐生グループ本社40階の大会議室。臨時取締役会の空気は、薄氷の上のように冷たく張り詰めていた。上座に陣取った第2位株主、宗一郎副会長が、傲慢な笑みで解任議案を振って見せた。「藤堂グループとの政略結婚を一方的に破棄し、数十億円の損失を出したうえ、株価を暴落させた。桐生蓮司代表取締役の解任を、正式に採決に付します」ざわめく取締役たちが、こぞって賛成に回ろうとした瞬間、扉が壊れそうな勢いで開いた。整ったスーツ姿の蓮司が現れ、ファイルをテーブルの中央へ投げるように置いた。「藤堂への違約金80億円は、私個人の資産で、すべて支払いを済ませています。桐生の法人に、1円の債務も損失も生じていません」冷たく威圧的な声が、会議室を制した。「そしてこちらは、桐生宗一郎副会長が過去3年間、海外のペーパーカンパニーを通して横領した、約40億円の伝票と他人名義の口座明細です。私を解任するか、それとも副会長を背任収賄の疑いで直ちに検察へ告発するか。取締役会でお決めください」宗一郎の顔が土色になり、全身が震えた。会議は、たちまち蓮司の掌中に収まった。だが、追い出されるように退出する宗一郎は、その脇を通り過ぎるとき、卑劣な笑みで囁いた。「会長の椅子を守れて、うれしいか、甥っ子よ。だが、今、広尾にいる、あのかわいい子は無事かな?」そのひと言で、蓮司の全身の血が冷えた。会議室を飛び出し、階段を駆け下りる。地下駐車場の専用車に乗り込み、広尾へ向かった。充血した目で前を見据え、ハンドルを握り潰しそうなほど握った。5年前、守れなかった妻と子の名を、血を吐くように繰り返した。――頼む……どうか、間に合ってくれ。今度だけは、命を捨ててでも守る。同じ頃、広尾。紗月の住む集合住宅の前の、静かな路地。通園バスを降りた湊の小さな手を握り、家へ歩いていた紗月の前に、ナンバープレートを隠した黒いワゴン車が、乱暴に割り込んだ。ドアが開き、人相の悪い男3人が鉄パイプを手に飛び降りた。湊へと、乱暴に腕を伸ばす。「ママ! うわあん!」湊が叫んだ。紗月は反射的に子供を抱き締め、全身を丸めてかばった。「その手を離しなさい! 誰か、助けて! 警察を呼んで!」必死に抵抗したが、屈強な男たちの力に、スーツが破れ、アスファルトへ叩きつけられた。男が鉄パイプを振り上げ、腕の中から湊を無理に引きはがそうとした
ルミエールの代表執務室の空気が、凍りついていた。紗月は差し出された信託契約書を指先で押し戻し、冷たく、きっぱりと言った。「ルミエールは、湊を守るために、私が5年かけて、血と汗を流して築いた会社です。安っぽい罪悪感に包んだ、同情まじりの保護なんて、ほんの少しも必要ありません」ぬくもりを一切許さない拒絶だった。それでも蓮司は、傷ついた目をしながら退かなかった。デスクの前で、静かに片膝をついた。「同情じゃない、紗月」声は、濡れた土のように重く、低かった。「5年前、母が横取りして裏金として洗浄した、慰謝料の5億円。そして、冷たい救急外来で、ひとりで子供を守らなければならなかった、あの地獄のような時間。これは、そのための当然の、正当な賠償です」赤い目で彼女の冷たい手の甲を見つめ、低く誓った。「取締役会に解任されても、持分も財産もすべて取り上げられても、かまわない。あなたと湊の行く手を阻む者がいるなら、俺の手で一族を潰してでも、排除します」権力も地位もすべて投げ出し、盾になるという、元夫の切実な誓いだった。言い訳もせず、ただ償いを口にする。その濡れた瞳を前に、冷えていたはずの紗月の胸が、どきりと沈んだ。揺れる気持ちを悟られまいと顔を背け、冷たく言い放った。「出ていってください。謝罪を受け入れるつもりは、少しもありません」これ以上苦しめまいとするように、蓮司は黙って頭を下げ、執務室を出た。その夜、広尾の紗月の家。幼稚園から帰って、リビングでおもちゃで遊んでいた湊が、テーブルの片隅にある、血のついたハンカチを見つけた。小さな手で拾い上げる。昨日、宴会場で紗月が蓮司に渡した、あのハンカチだった。「ママ! これ、雨の中で泣いてたおじさんのハンカチだよね……」湊は丸い目をぱちぱちさせ、母を見上げた。「あのおじさん、もう泣いてない? 手に血が出てたよ。ふーって、してあげた?」まっすぐな問いに、こらえていた涙が、胸の奥から一気にこみ上げた。紗月は湊を強く抱き寄せ、静かに泣いた。腕の中で、湊は小さな手で母の背中をとんとんと叩き、温かな言葉をかけた。「ママ、泣かないで。ぼくが守ってあげる」優しい声が、凍えた胸を包んだ。紗月は涙を拭き、子供の小さな額に口づけた。同じ頃、桐生グループ本社の大会議室。業務から外され、実家にとどまる雅子と手を組む男が、冷た
その言葉の直後、廊下で待機していた取材陣が、開いた扉へ押し寄せた。グランド・キリュウ・ホテルの大宴会場は、たちまち騒然となった。何十台ものカメラのフラッシュが焚かれ、リハーサルに来ていた両家の関係者のざわめきが、会場を覆った。「桐生蓮司会長! 今の破談のお話は、藤堂グループと事前に合意された決定ですか?」「一ノ瀬紗月代表! 5年前、桐生雅子氏が慰謝料の資料を捏造し、あなたを陥れたという疑惑は事実ですか? ひと言お願いします!」記者たちはマイクと望遠カメラを突き出し、操作卓のそばに立つ紗月へ、群れをなして押し寄せた。その危険な混乱の中、壇の下で膝をついていた蓮司が素早く立ち上がり、紗月の前を全身で塞いだ。純白のタキシードの上着を脱ぎ、彼女の肩をしっかり包む。広い体で、カメラもフラッシュも遮った。「秘書室の警護チーム、全員、操作卓の前へ! VIP専用の退場ルートを、今すぐ確保しろ!」指示とともにホテルの警備員が入り、取材陣とスタッフの間に通路をつくった。紗月はその手を振り払おうと身をよじった。しかし四方から押し寄せる人の圧力に、ハイヒールの足元がぐらついた。そのとき、反対側の警備用通路から、ホテルの警備チームを連れた悠真が現れた。紗月の手首を、優しく、けれど確かにつかむ。「紗月、こっちだ! 俺の車を、地下2階のセキュリティエリアに待たせてある」悠真に付き添われ、専用エレベーターへ逃れていく背中を、蓮司はカメラの包囲の中で、血のにじむ思いで見送った。紗月が無事にホテルを出たと確認してから、ようやく取材陣とマイクに向き直った。瞳は、霜より冷たかった。「本日明らかになった証拠と金融伝票は、桐生グループの公式広報を通じ、原文のまま公開します。今後生じるすべての法的・道義的責任は、私、桐生蓮司個人が負います」リハーサルでの破談が報じられると、桐生と藤堂の関係部署は、直ちに対応に追われた。市場が開くなり桐生の株価はストップ安となり、藤堂は数十億円の違約金請求と、すべての事業提携の解消を正式に発表した。桐生の取締役会と一族の勢力は、蓮司を背任と名誉毀損で追及し、緊急の会長解任案を提出した。破滅的な嵐のただ中で、蓮司はタキシードを脱ぎ捨て、シャツの袖を乱暴にまくり、ルミエールへ向かった。午後4時。東京・南青山のルミエール代表執務室。紗月は動揺す
グランド・キリュウ・ホテルの大宴会場。壮麗なアーチの下で、紗月の細い指先が、最後のスズランの茎を丁寧に整えた。オランダから直輸入した白いアジサイと、フランス製のクリスタルオーナメントが美しく調和し、純白のバージンロードの上に、まばゆい天の川を描いていた。柔らかなピンスポットが落ちるたび、クリスタルビーズが澄んだ光を放つ。会場全体に、一幅の名画のような気高い優美さが満ちていた。ルミエールの装花チームも舞台演出チームも、息をひそめ、完成した空間に見入っていた。そのときだった。バンッ!重厚なウォールナットの扉が、壊れそうな勢いで開いた。穏やかな静けさが砕け散る。豪奢なミンクのコートをまとった雅子が、4人の民間警護員を連れ、怒りに顔を歪めて入ってきた。「こんな汚らしい、縁起でもない花なんて、全部ひっくり返してしまいなさい! さっさと片づけて!」甲高い叫びが、宴会場の高い天井を突き破るように響いた。命じられた警護員たちは、舞台中央のフラワーアーチへ乱暴に手を伸ばし、備品を蹴り始めた。スタッフが青ざめ、悲鳴を上げて後ずさる。紗月はひるまず壇上へ上がり、雅子の前に立ち塞がった。そのまなざしは、氷河のように冷たく、揺るがなかった。「今すぐ、やめてください」明瞭な声が、会場の騒ぎを切り裂いた。「桐生雅子様。ここは藤堂グループと桐生グループの正式な契約に基づき、ルミエールが全権を委任され、管理する制限区域です。花びら1枚でも損なわれた場合、ご実家側に損害賠償を請求し、業務妨害について、直ちに民事・刑事の責任を問います」「何ですって? どこの馬の骨とも知れない小娘が、誰に向かって口を利いているの!」雅子は完全に理性を失い、喚きながら紗月に手を伸ばした。そのままメイン照明の操作卓を、丸ごと押し倒そうとした瞬間だった。バンッ!息を切らした蓮司が、扉を蹴破る勢いで駆け込んできた。黒い瞳には、血の涙にも似た怒りと殺気が燃えていた。蓮司は駆け寄ると、母の手首を押さえ、操作卓から引き離した。「母さん! 今すぐ、その手をどけろ!」雷鳴のような怒声が、会場を震わせた。雅子がバランスを崩し、よろめく。あとから入ってきたホテルの警備チームと桐生秘書室の警護員たちが、私設の警護員を備品から引き離し、制止した。蓮司は荒い息をつきながら、紗月の全身を確かめた。「紗月
田園調布の静かな路地の奥。赤松に囲まれた、旧邸宅を改装した貸切の茶房。ほのかな煎茶の香りが漂う離れで、怜奈は入ってきた蓮司を、茶碗を手にしたまま冷たく見た。スーツは隙なく整っていたが、顔に落ちる濃い影とこわばった顎には、拭いきれない疲れと罪悪感がにじんでいた。怜奈は挨拶ひとつせず、バッグから出した分厚い調査報告書を、テーブルの中央へ押し出した。表紙を見た瞬間、蓮司の顎が強くこわばった。5年前、雅子が紗月を陥れるために捏造した証拠と、紗月の救急診療記録だった。「5年前、桐生グループの経営権を継ぐために、母親の卑劣な捏造劇に目をつぶり、妊娠していた奥様に血の涙を流させた。その張本人が、桐生会長だったんですね」声は澄んでいた。だが、その中にある軽蔑は、氷の刃より鋭かった。「いちばん身近な家族さえ信じず、切り捨てた男を。私が、藤堂グループの生涯の事業相手として、そして夫として、信用できるとお思いでしたか?」厳しい非難にも、蓮司はひと言も弁解しなかった。書類を静かに見下ろし、低く重い声で答えた。「母のせいにはしません。妻を守れず、真実を見ようとしなかった。私の臆病さと傲慢さが招いた、取り返しのつかない罪です」まっすぐ、怜奈の目を見た。「この結婚を取りやめたいとお考えなら、破談に伴う違約金はすべてお支払いし、桐生の事業持分も、無条件で譲渡します。藤堂に1円の損失も出ないよう、私が全責任を負います」自分の過ちを正面から認め、数百億円規模の損失まで引き受けるという。その態度に、怜奈の目が意外そうに揺れた。あれほど傲慢だった巨大企業グループの総帥が、たったひとりの女への償いのために、すべてを投げ出そうとしている。怜奈はゆっくり茶碗を置き、冷ややかに口を開いた。「破談にするかどうかは、いつでも私が決められます。でも、一ノ瀬代表は、ご自身のキャリアと誇りを懸けて、この結婚式を最後まで完璧にやり遂げたいそうですよ」唇に、かすかな笑みが浮かんだ。「一ノ瀬代表の見事な実力とプライドを傷つけずに、あなたがどこまで償えるのか。見せてもらおうじゃありませんか」怜奈は茶碗を空にして、きっぱり席を立った。「結婚式の当日まで、見ています。一ノ瀬代表の完璧なお式に、少しでも傷がつけば、藤堂はその時点で、桐生との破談を正式に発表します」張り詰めた面会を終えた蓮司は、胸をな







